2017/09
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東北被災地視察ツアー
3月25日~26日は、かねてより企画していた宮城県石巻、名取の被災地視察バスツアー。
ネットで呼びかけて、男性12名、女性18名で出かけることになりました。

バスの手配やら、ホテルの予約、現地を案内して下さる方々の人選やら、行程やら、ほんとに企画してくださった事務局の皆さん、ありがとう。
そして、今回、名取市役所訪問の段取りをしていただいた市原市災害支援ボランティア「NPO法人ゆかいな仲間たち」の皆様、ほんとにありがとうございました。

バスは、一路石巻へ。途中、石巻のレクチャー。
宮城県では2番目の都市、人口は16万人。面積は市原市の1.5倍。北上川の河口に栄えた奥羽地方の貿易の拠点。漁業も盛ん。

その河口都市であることが、被害を大きくした。(津波が、川を遡上した)

人口16万人のうち3173名の方が亡くなられ、759名が今も行方不明となっている。

また、57812世帯のうち、全半壊家屋が23367棟。

石巻についてからは、日本基督教団東北教区被災者支援センター・エマオでボランティアをしておられる浅海さんにバスに乗り込んで、現地を案内し、お話していただく。

浅海さんがお若いのに、びっくり。

てきぱきと当時の状況、現在の状況、課題などお話していただく。

写真だけ、今回は載せていく。
車の山その2
12月に来た時とガレキや廃自動車の山の状況は変わらない。
この打ち上げられ、流されて、ここにとどまっている「かんずめ」はそのまま残っていた。
巨大なかんずめ
車が相変わらず山積み。
持ち主が特定できないと廃車手続きができず、廃車にできないのだとか・・・。こんな非常事態になんてこと・・。
山廃自動車の
これも車が積んである光景。
車の山その2

秋以降にようやく再開し、煙突から煙が上がり始めた日本製紙工場。
日本製紙工場
少しづつ、ゴミの焼却もここでも行なっているとか。

しかし、近くには、いまだ、朽ち果てた、工場も。
壊れた工場
ひたたび、ガレキの山
石巻ガレキここも

ここは、石巻の駅前通り。
電柱が歪んでいるのか、道路がゆがんでいるのか、平衡感覚が変になる。
看板がゆがんだまま。
石巻駅前


門脇小学校が近づいてくる。
大川小学校が見える2


さらに近く寄ってみると、廃墟のような無残な姿。
大川小学校さらに近づいて

前回もおとづれた「がんばろう!石巻」のモニュメント。
花輪が痛々しい。
がんばろう石巻
ここで、浅海さんから、素敵な青年を紹介された。
NPO法人ぐるっとの理事、末永克さん。
ここで、小さなプレハブの小屋を立てて、現地をおとづれた人たちに、当時のこと、その後のことを、詳細に語って下さる。

末永さんは、ここへ来ても、みんな通りすぎるだけ。
そうでなく、ここで何が起こったのか、今度自分の身に同じことが起こったらどうすればいいのか、何ができるのか、考えて欲しい、忘れないで欲しい、震災ガレキの問題も、ここに立って、この景色を見て、判断して欲しい、と、優しく語ってくださいました。

聞いてほしい、ここをおとづれた家を流された人たちも、ちょっと立ち寄って、お茶を飲んでいってほしい、と言われました。

私たちは、被災地をおとづれることを遠慮しすぎてはいけない、と今回もつくづく思いました。
同じく、ここで、ご当地グルメまちおこし団体連絡協議会の「石巻茶色い焼きそばアカデミー」のおじさんが、
是非、ここで「仮設トイレをつくってほしい」「ここは、みんなが住んでいた街だったのに、今はガレキになってしまって、ここで、立ちションなんかをしていくひとがいるのが情けない。なんとかトイレがほしいんだ}と話してくださった、なんとか力になれないものか、と今は考えている。

その晩は、松島市の大観荘に泊まる。思った以上にりっぱなホテルで、お客さんもいっぱい。その晩は、美味しい夕食に満足。

翌日は、朝7時に朝食、その後すぐにバスで名取へ。

本日バスに同条してくださるのは、小澤さんの高校の同級生の中山さんと、そのお友達の木島さん。
中山さんは、通常は人材育成にお仕事、木島さんは、元ホテルマン、今は、ホテルマンを目指す人たちを指導する立場。
とてもわかりやすいお話。
そして何より、木島さんは、これから行く名取に住み、命こそ助かったが、家は跡形もなく流されてしまった被災者。1週間の避難所暮らしも体験された。

松島から多賀城市を経由して仙台をめざす。
木島さんは、なぜ多賀城市なのかという説明をしてくださった。

多賀城市エリアは、地勢上、市原市とよく似た印象がある。
石油コンビナート等を擁する、海に面した工業地帯であり、
そのすぐ裏を幹線道路が走り、さらにそのすぐ内側が商業&居住地帯になっていることなど、
すぐにも、市原の防災計画に活かせそうだ。そんな配慮もあって、
多賀城市の市街をバスが通過した。

たしかに、この地形は、まさしく、市原。
マジカに迫ったと言われる東京湾地震に、どう備えれまいいのか・・・。

木島さんは、
津波が押し寄せた当時の凄まじい状況をバスの中から、現場で語られる。

「ここではこうだった。この五差路では、車がみるみる波に飲まれ流され、人々も次々波にさらわれていった}
などという状況を話してくださった。

木島さんは、たまたまお子さんの卒業式で、在宅、川を波が引いていく光景を見て、これはただ事でない、と思い、子供たちを引き連れて逃げたのだという。ただ、足の悪いおばあちゃんがいたので、車で逃げた。危機一発だった、という。

このお寺の近くが、木島さんたちのおうちがあったところ。

見事に何もなくなっています。
名取お寺そば
閖上地区は平ら

写真は、閖上地区というところ。
海は豊かな漁港だった。見渡す限りのまっ平らな平面、高台と言えるところがない。
高台に逃げろ、と言われても逃げるところがない。

ここは日和山。ここは少しは高いので、ここへ登った人たちがいたけれど、この高台の上にあった祠ごと人は流されてしまった。
日和山全景
少し登ってみる。
日和山登る

あるのは、卒塔婆?道標だけ。
日和山今は道標だけ
そこに、当時の新聞が置いてある。石で抑えてある。

日和山新聞
日和山から、周辺を見る。ほんとに何もない。
みんなで黙祷を捧げる。
日和山から望む
10時すぎには、カナダの首相?がこられるということで、私たちは、それまでには、どいてほしい、と言われる。別の場所に移動。

避難所での様々なお話も聞いた。
木島さんたちが避難していたのは、文化会館脇の小学校。先生たちが、自分たちだって被災者なのに、ほんとにまめに親身になって世話してくださったという。
引き換え、隣の文化会館(ホール?)は、あまり職員が顔をださなかったとか。
マスコミやら著名人がしょっちゅう顔を出していたのは、隣の文化ホールの方。

しかしアットホームで、交流が豊かにあったのは、小学校の方だったとか。
聞かなきゃわからないもんです。

その後、11時から、名取市役所へ。
お忙しいところ、総務課長さんがあったかく迎えてくださり、副市長さんが、12時まで、1時間びっしりと直接、様々な当時の事やら、ガレキに対する対応やら、街の再生計画のことやら、話してくださった。すっかり恐縮してしまった。

市原からいち早く駆けつけた白尾さんたちのボランティアのみなさんが、継続的に関わってくださったこと、市原市職員が、名取へ応援に駆けつけてお手伝いしてきたこと、そんなことが、私たちを温かく迎えてくださった理由の一つだろうと思う。

今欲しいのは人的支援だとか。土木や様々な技術のある職員の力が不足している、と繰り返し語っておられた。

文字通り未曾有の震災、津波被害で、マニュアルは役に立たなかった、その都度、臨機応変に次々起こってくることに対応するしかなかった。まず最初に停電で電源が失われてしまった、非常用はあったのだが、当初は作動しなかった。そのため、職員は、避難のアナウンスを繰り返していたのに、その声が、市民に届いていなかった、など、聞いていて胸が苦しくなるようなお話。

1万1千人の被災者、避難所の運営、加えて行方不明者の搜索。そして、ピストン輸送で様々な支援物資や救援やらしなければならないのに、ガソリンがない。20リットル限定でやったけど、市民からの苦情がとても大きかった。辛かった。まだまだほんとにあれこれ話してくださった。

ありがとうございます。

市原の地域防災のあり方をしっかり反省し、今後に活かしたいと思います。

書きたいことはまだまだあるけど、すっかり深夜。これでやめます。
プロフィール

ichiharatomoko

Author:ichiharatomoko
     
1948年石川県生まれ
早稲田大学卒業
市原市議2期を経て千葉県議(2期目)
市民ネットワーク千葉県共同代表

子ども3人は独立し夫と2人暮らし、ネコ1匹
趣味は絵を描くこと、俳句、散歩、読書

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