2017/05
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東北津波議連視察(1)
5月12日~14日まで岩手県・宮城県の津波被害の2年後の現場を、県議団の地震・津波対策議員連盟の有志で視察してきました。

総勢25人、盛岡まで新幹線 → バスに乗り換え北から南下するコース → 盛岡で早い昼食 → 約3時間かけて普代村へ。

2泊3日間、ガイドとして同乗して解説してくださったのは、金子さん(三陸鉄道株式会社)です。
金子さん

東北では百花一斉に咲き始めます。
紅梅、木蓮、雪柳、菜の花、そして桜・・。

普代村
ここでは、防潮水門などが東日本大震災で効果を発揮し、
同村の中心部や集落を大津波から守りました。
(ただし、船を心配して海を見に行った人が一人行方不明者になっています)

三陸海岸に面した普代村は、1896年に発生した明治三陸大津波では、1000人以上の死者や行方不明者を出しました。

この教訓のもとに、普代川の河口から約300m上流に建設されたのが普代水門です。
水門の高さは15.5m、長さは約200m。
岩手県が高潮対策事業の一環で総事業費35億6000万円をかけて建設し1984年に完成しました。

水門は、本来遠隔操作で水門の開閉をできるはずですが、操作中に地震の影響で停電。一部を久慈消防本部の職員が手動で操作して、津波の到達前に水門を閉めました。

津波は到達時に水門を越えたものの、水門から約200m上流付近で停止しました。
水門の上流側に設けた管理用の橋が破損しましたが、住宅などに浸水の被害はありませんでした。

太田名部地区でも、太田名部防潮堤が効果を発揮しました。ここも堤防は高さが15.5mです。
津波は防潮堤の高さ約14mの位置で止まり、背後の集落に被害はありませんdした。

(普代村では住宅への浸水被害はなかったものの、水門や防潮堤の下流側では水産加工場が全壊するなど、漁業施設に大きな被害が出ています。)

田野畑村
岩手県はリアス式海岸で、山が海にせまり、部落ごとに分断されています。
だから、高台にある家や部落は比較的無事で、海岸に張り付いた部落は大きな被害を受けるなどの違いが生じています。
バスの車窓から見ていても、とてもひどい被害を受けているところと、比較的被害の少ないところがくっきりと分かれていたりします。

田野畑村では死者・行方不明者併せて32名。
岩泉町では、死者10名。

宮古市の田老(たろう)町
そして、万里の長城とまで言われた防潮堤を有した宮古市の田老(たろう)町では、津波が二重の防潮堤を乗り越え、大きな人的被害を出してしまいました。
(防潮堤は、45年の歳月をかけた高さ10m、総延長2.5kmのものです)
宮古市全体で、死者460名、行方不明者94名、家屋倒壊は4000世帯となってしまいました。
堤防は、あちこち無残に壊れていました。

同地区ではホテルグリーンピアのあたりに407戸の仮設住宅を作りました。
そこに併設されている「タロちゃんハウス」の箱石理事長からお話を伺いました。
DSCN3216.jpg
箱石理事長
箱石理事長全体

2011年3月の震災後、すぐに5月には、テントでお店を再開し、被災者に日常品の供給を始めたそうです。

タロちゃんハウスです。
仮設タロちゃん店舗
仮設店舗内で女性たちが手作り品等を販売するためにオープンしたお店。
あいにく時間外で閉まっていました。
女性たちのショップ(タrチャン)

震災では、地域の39店舗のうち37店舗が被害を受け、仮設住宅建設と共に、ここに仮店舗をオープン。

現在は、仮設住宅から少しづつ出ていく人があり、商売もなかなか難しいとのこと。
今後は、店舗もまた、高台移転、国道そばにかさ上げして開業、集約型の店舗、という選択肢を検討しているとのことですが、いずれも厳しそうです。

岩手県全体でも仮設住宅は当初18,000戸を予定していましたが、結局必要戸数は14,000戸に留まっています。お年寄りが、家族のもとに引き取られたり、部屋を自分で借りたり、家を立て替えたりなどして、仮設の需要は当初を下回ったのだそうです。

潜在的に高齢化・過疎化の問題があった地域に、この津波が、さらに大きなダメージを与えています。

リアス式海岸は、部落が、それぞれ孤立しがちです。
それが今回の津波でさらに孤立させられました。
だからこそ、ここでは、まっ先に取り組むべきは道路(インフラ)なのですが、
どういうわけか、道路整備が後回しになっているため、
まちづくりの話が進まず、地元首長も困り果てているそうです。

(国は、どういう復興支援をしているのでしょう?)

お買い物をした後、堤防を見に行きました。
防潮堤4・5m
ここは、4.5mの堤防です。
これでも水の勢いをいくらか止める効果はあったのですが、
波は堤防を越え、その奥の松も枯れていました。
防潮堤の上で
防潮堤から見ると人がこんなに小さい。
防潮堤上から見ると人が小さい
手動式の水門。
これでは、開閉に当たる人の命は守れません。
手動水門

この日は、宮古のホテルに泊まりました。

13日(月)
山田町
(金子さんから説明を受けつつ車窓から見学しました)
死者663名、行方不明者146名、家屋倒壊が3167戸。

大槌(おおつち)町
死者852名、行方不明者432名、家屋倒壊は4000戸近く。
全国に、何度も、何度も、津波の映像が流れたところです。
石巻のような光景が延々と続きます。
土台だけの住居跡、いまだ除去されない倒壊家屋、
大槌町土台だけ
草ぼうぼうの原野となった地帯。
何もなく草ぼうぼう
大槌町看板
車窓から見える、右も、左も、家がなく、山までえぐられています。。
見渡す限り原野に
遠く山裾あたりでようやく家らしい家が見えます
バスの左山までえぐられている

あちこちで、土木工事作業員の仮設宿舎が見えます。
作業員仮設住宅
バスから見える仮設の橋、いたるところで工事、ガレキ。
仮の橋(バスから)

釜石
死者979名、行方不明者152人、倒壊家屋3655戸。

ここでは「釜石の奇跡」と言われた現場の学校跡地で説明を受けました。
この地区は、低地が多く、小学校も中学校も防潮堤近くに位置しています。

地震の揺れが収まった後、一旦は、先生が校庭に集合させようとしましたが、
子どもたちが「一刻も早く高台へ!」と声をかけあい、
高台へ続く一本径を中学生が小学生」の手を引いて危機感の低い近隣の大人にも声をかけながら逃げました。

そして市の指定避難場所に約700人が集まったのですが、一人のおばあさんが、裏山の崖崩れを見て、
「こんなことは、今までなかった。ここも危ない!」と叫び、そこで、また一斉にさらに高いディサービスセンターまで逃げたのだそうです。この時も子どもたちが率先して逃げ、その勢いに大人が煽られ、共に逃げ助かったのだという話を聞きました。

背後からせまる真っ黒な津波が学校を飲み込む光景が見えたそうです。
「つなみてんでんこ」という言葉の重みが、ここでも語られました。

その当該地である鵜住居(うのすまい)小学校、釜石東中学校跡地を見学。今は、工事用の土砂が積み上げられていました。

釜石から、約1時間半バスに揺られて、遠野へ。
遠野防災センターで、本田敏秋市長から、みっちりお話を伺いました。

その話をもう少し詳しく書きたいので、以下、次回へ。

その日は、遠野市の「あえりあ遠野」に泊まりました。
プロフィール

ichiharatomoko

Author:ichiharatomoko
     
1948年石川県生まれ
早稲田大学卒業
市原市議2期を経て千葉県議(2期目)
市民ネットワーク千葉県共同代表

子ども3人は独立し夫と2人暮らし、ネコ1匹
趣味は絵を描くこと、俳句、散歩、読書

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